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三−3−1 佐木理人意見陳述

 

 1995年10月21日午後10時頃、私は、大阪市営地下鉄御堂筋線天王寺駅ホーム端において、下車した列車に接触し、軌道上に転落約16mも列車に引きずられ、頭部挫創(33針)、左上腕部骨折、左大腿部骨折という重傷を負いました。
 私は、冷たく巨大な車輌に引きずられている間に感じたあの底知れぬ恐怖心を忘れることができません。「自分はいったい、どうなっているんだろう。車輪の下敷きになっているのだろうか。それとも、もう、死んでしまったのだろうか。」様々な思いが強烈な衝撃で混乱した頭の中を駆けめぐりました。そして、列車が停止したことが分かった時、「死ぬのは嫌だ。何としてでも生きたい!」と考え、「助けて。助けて。」とあらん限りの力を振りしぼって叫び続けました。
 ずいぶん時間がたったとおもわれた頃、ようやく駅員の方々が軌道上に倒れている私を発見し、駆け寄ってきました。「大丈夫か。大丈夫か。」という声を耳にしながら、担架にかつぎ上げられるのと同時に左半身に激痛が走りました。耐えがたい痛みの中で「ああ。僕の左手と左足は粉々に砕けたのだろうか。でも、激しい痛みがあると言うことは生きているのだ。」と確信しました。
 救急車で市内の病院に運ばれ、応急処置を受け、それから長い長い入院生活が始まりました。毎日毎日繰り返される数多くの検査、計5回行われた手術の後に襲ってくる言い様のない激痛、そして、一種の絶望感。「僕は、本当に直るんだろうか。以前のような生活ができるんだろうか。病院を出てみんなの所に戻れるんだろうか。」そのようなことばかりを、包帯でぐるぐる巻きにされ、動かなくなった利き腕の左手を右手でこわごわさすりながら、又、無惨にも太い針金でしっかり固定された左足の指を必死に動かしながら、絶えず考えていました。
 やがて、何とか人の手を借りて車椅子に乗れるようになり、リハビリが開始されたのですが、手も足も全く動かしていなかったので、硬直してしまっていて思うように動きません。「点字を左手で確実に読めるようになるんだろうか。単独で白杖を使って自由に歩けるようになるんだろうか。」またも大きな不安が胸の中に広がりました。それでも、「一日も早く回復するために、ほんの少しのことからでもいいから、自分ができることを毎日着実にやって行こう。それが、僕自身のためでもあり、ここまで僕を支え、今も応援し続けてくれている数多くの友人たち、先生方、ボランティアの方々、お医者さんや看護婦さん、そして何よりも両親の気持ちに答えることにもなるんだ。」
こうした固い信念の基、毎日午前中は病院のリハビリ室で決められたメニューをこなし、そして、午後は病室で独自に工夫した方法でリハビリに努めました。その結果、左足が2cm短くなり、正座と鞍坐ができないという大きな後遺症は残ったものの、現在のような状態にまで回復することができたのです。
 入院から6カ月が経過し、ようやく待ちに待った両足歩行の許可がおりたので、早速リハビリの部屋で手すりを持ちながら車椅子からゆっくりと立ち上がり、最初の一歩をおそるおそる踏み出しました。「歩ける!歩ける!」その瞬間、深い感動で胸が熱くなり思わず涙がこぼれました。「よかった!よかった!」入院中、来る日も来る日も仕事が終わると私の看病のために病院に通い続けてくれた母の涙に咽ぶ声を私は一生忘れません。
 一方、長い入院生活でのリハビリに対する私の強い意欲と精いっぱいの取り組みに比べ、公共交通機関の運営・管理を行い、一切の責任を負っている筈の交通局側の事故後の対応はどうでしょう。当局は、利用者である乗客を安全に輸送することを第一の義務とされているにも関わらず、点字ブロックは増設したものの、いまだに転落防止用の防護柵を設置せず、不十分な状態のまま、事故現場を放置しています。このようなお粗末な状態では、今後私と同じような悲惨な事故に遭う視覚障害者が出ることは間違いありません。
 事故後、病室を訪れた交通局の方が「あなたが、どうして、立入禁止と書いてあって、通常人の行かないホームの端に進んでいったのか理解しかねます。あなたの事故について、私どもには一切過失はありません。もし、当方に過失があると考えられるならば、第3者に訴えて、つまり法的な場所での審理を仰いで下さい。これは、私の個人的な見解ではなく、交通局長の見解です。」とベッドに横たわっている私を目の前にして出された言葉には、たいへん無神経な印象を受けると共に、交通局という大組織がこの事故に対して持っている冷たい態度を感じざるを得ませんでした。私は、布団の中で、拳を固く握りしめながら、煮え立つほどの悔しい思いを抱いていました。事務的な会話を終え、当局の方がそそくさと帰ってしまうと、この悔しさは、悲しみ、むなしさへと形を変えていったのです。「本当に僕だけが悪いんだろうか。僕一人だけが。」気がつくと、このことばかりを自分に問いかけていました。
 事故から4年が経過し、入通院生活も終わりようやく落ちつきを取り戻した私たち家族は、本年4月8日に地下鉄を運営管理している大阪市を相手に提訴することを決めたのですが、これは、私が、「生き残った者として何ができるか」ということを考えに考え、家族との話し合いを重ねた末に出した結論なのです。
 私は、何よりも、今後地下鉄を利用される多くの視覚障害者の人たちに私のようなつらくて、悲しくて、悔しかった経験を味わっていただきたくないのです。「大変お気の毒な事故だ」と交通局の方は新聞紙上においてコメントしていますが、そのような簡単な言葉で、私の4年間を語ることは決してできないのです。
 今も尚、多くの視覚障害者が駅ホームから転落し重傷を負われたり、無念にも尊い命を落とされています。生き残った私は、法的な場所において、交通局側の過失を明らかにすると共に、私の事故現場に十分な改善がなされ、今後同じような事故が発生しないように求めるものです。このような取り組みが、やがて「だれもが自由且つ安全に移動できる街づくり」の実現につながるものと確信しております。だれもが、いつ視力を失ったり、耳が聞こえなくなったり、足が不自由になったりするか分からないのですから。 そして、だれもがみんな年老いて行くのですから。「だれもが自由且つ安善に移動できる街」は生きているすべての人たちのそして、事故で命を失った人たちの切なるの願いなのですから。
 このような体験を経ました私の心からの訴えをお聞きいただき、十分ご理解いただきました上で誠意ある審理をしていただきますようよろしくお願い申し上げます。



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